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「原爆で母が」「写真でしか知らぬ父の顔」太平洋戦争後 残された家族の過酷な運命【佐賀県】

2023/08/07 (月) 18:40

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さきの太平洋戦争では国内外で軍人、国民合わせて310万人が犠牲になったとされています。一方、生き残った家族たちの運命も過酷でした。子供の時に家族と死に別れ、その後の運命が大きく変わった2人に話を聞きました。

【右近守さん】
「きょうだいとして一緒に育てられていない。けんかをしたり、なんかしたりという記憶が全くない」

小城市に住む右近守さん82歳。守さんも戦争で運命が変わった大勢の中の一人です。

【右近守さん】
「長崎市の稲佐で爆心地から1.8キロと書いてある」
Q防空壕に入っていなかったら?「いまこうしてないでしょうね」

昭和20年1945年8月、アメリカは広島・長崎に原子爆弾を相次いで投下。史上初めて人類に対し使われた核兵器です。

【右近守さん】
「私と兄と姉の3人で長崎の稲佐山へのぼるロープウエーがあるそこにある淵神社というところで遊んでいたんですよ。遊んでいたら空襲警報があったので、さあ防空壕へ入れ、ご近所さんが防空壕へ入れと言ってくれた」

原爆が投下されたとき守さんは4歳でした。

【右近守さん】
「異様な光が入ってきたのとどーんと圧力というかすごい風というか防空壕のなかに入ってきて防空壕のなかで吹き飛ばされていた」

投下後、アメリカ軍が上空から撮影した淵神社付近の写真です。防空壕の前にあった製材工場の木がバラバラに吹き飛ばされ多くのけが人や遺体があったといいます。

【右近守さん】
「淵神社で遊んでいた子供たちが裸で遊んでいるものですからここから皮がむけて、引きずりながら「水、水」と言いながら、もぞもぞしている人がいたり、それから亡くなっている人。『やけどをしているから水をやったら死ぬから水をやったらいかんぞ』と繰り返し言われながら、稲佐山の中腹まで逃れている」

幼いころに父を亡くしていた守さんは長崎を離れ、母カツさんの故郷で鹿児島の離島甑島へなんとかたどりつます。しかし母の顔は原爆投下前とは大きくちがっていました。

【右近守さん】
「顔は崩れていて、お岩さんみたいになっているものですから、蚊帳の中から私を呼ぶんですけど怖くて入っていききらない」

1枚も写真が残っていない守さんの母は、原爆投下からちょうど1カ月後の9月9日、亡くなりました。37歳でした。その年の12月までに7万3800人余りが長崎の原爆で命を失ったとされています。

戦後、守さんら3きょうだいは別々に育てられ、会うことはほとんどありませんでした。

【右近守さん】
「私が被爆者ということは知っているが、子供たちにあまり詳しいことは言っていない。孫たちにも言っていない」

9人の孫に恵まれた守さん。80歳を超えある取り組みを始めます。この日、守さんの姿は佐賀市の金立小学校で開かれていた平和を学ぶ集会にありました。児童を前に被爆した時の体験をありのままに伝えました。

【児童】
「国と国とが仲良くできるように政治家がお互いに話し合って政治家が外交努力をして世界中の国々と仲良くする、ということが戦争を無くす一番の手立て。私は右近さんの話を聴いて現場の恐ろしさを知り、戦争が良くないことだというのが改めて分かりました」

守さんは若い世代に家族を死なせ、引き裂いた戦争を伝えることが自分の役目だと強く思っています。

【野中愛子さん】
「戦場の露として消えるのは軍人の本懐なれどおしゃべりの愛子さんを頼む。これがぐっときますね」

戦場から送ってきた父の手紙を読む、佐賀市の野中愛子さん84歳。愛子さんが3歳のとき、父満岡孫六さんは南方のニューギニア戦線で戦死しました。31歳でした。

【野中愛子さん】
「食べ物が来なくて餓死したみたいですよということを聞いて、それで余計悲しくなった。(母は)泣いてましたよ。おじいちゃんの前では泣けないから裏でね泣いてましたよ。そういう姿を見せてはいけない時代でしょ。戦死したら万歳万歳の感じその時代は」

父の顔を愛子さんは写真でしか見たことがありません。
父の戦死に追い打ちをかけたのが母との別れでした。

【野中愛子さん】
「あなたはまだ若いからといって実家に帰って自分の人生を生きてください。私は母につきたい。おじいさんにしてみれば私は初孫。母と別れないといけなくなって一晩泣き明かして。母と別れたのが一番つらかったですね」

当時、若くして夫が戦死した場合、妻は夫の兄弟や別の男性と再婚することはめずらしくありませんでした。

【右近守さん】
「再婚の話があって、男の子1人、女の子2人の3人の子供がいるところに再婚した。私より2つ上の男の子がいたから、『将来私と結婚させたら一緒に住める』という条件で再婚したと思う」

愛子さんは、母の再婚相手の息子とは結婚しなかったため、その後、母とも一緒に暮らすことはありませんでした。母杉子さんが父孫六さんと結婚した19歳の時、書き残した言葉に今も思いを馳せます。

【野中愛子さん】
「どうぞよき夫であってくれますように、そして私もよき妻であらんと心掛く。書いてあるでしょ」

戦後78年経った今も、家族を引き裂いた戦争には悲しみや嫌悪を感じます。

【右近守さん】
「いまだに戦争がなかったら母と父と暮らせたなと思うと、戦争はやだなと思いますね。戦争がなかったら家族で一人っ子だったけどひょっとしたら兄弟ができたかもわからないですし、悲しいのは残された家族とか戦死したりした人の家族が一番悲しい。戦争はいや。いつも思うけど、終わらないですね戦争は昔から」

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