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満州・朝鮮半島からの"引き揚げ” 恐怖と空腹…着の身着のまま日本へ 長く壮絶な道のり

2023/08/11 (金) 18:25

当時、日本が事実上支配していた満州や朝鮮半島から着の身着のままで家族と引き揚げてきた2人の女性の体験談です。待ち受けていたのは日本までの長く壮絶な道のりと貧しく苦しい生活でした。

【満州から引き揚げた 崎田安子さん】
「昼は炎天下、夜は零下に下がるような環境だから子供がどんどん亡くなってくる」

外地からの引き揚げ体験を語る佐賀市に住む崎田安子さん81歳。現在の中国東北部にあった「満州」の乾安で生まれました。当時、「満州」は事実上日本が支配。多くの日本人が移り住んでいて、名前は乾安の地名から1文字とって安子と名づけられました。崎田さんが3歳のころ、扉と同じくらい大きな恐ろしい敵兵がやってきたのを戦後78年経った今も鮮明に覚えています。

【崎田安子さん】
「パッてドアを開けた、そしたら背の高い外人さん見たこともないような人が立っていて、もう声も出ないほどびっくりして日本人じゃない人を初めて見るもんだから」

当時、敵の兵士が押し入り、物を盗んでいくことがよくあったため、それぞれの家でノックのリズムが決まっていて、叩き方で家族か敵兵かを判別していました。
しかし、幼い崎田さんはそのルールを知らず父が帰ってきたと思って開けてしまったといいます。

【崎田安子さん】
「叔母さんと私はそのドアからパッと外に出て、外に小屋があったのでその小屋にずっと隠れていてドキドキしながら怖さを2人で一所懸命おさえて、出ていくのが見えて中に入った。初めて外人さんを見たというその恐ろしさがずっと残っている」

しかし、これからもっと壮絶な体験が崎田さん一家を待ち受けていたのです。
1945年昭和20年、日本はアメリカをはじめとする連合国の前に敗戦。一方、終戦後まもなく外地からの引き揚げが始まりました。

【崎田安子さん】
「牛の馬車、牛に引かれる、そこに鈴なりに乗る、道はがたがたで小さい子供が外側にいたら降り落とされる。降り落とされたらどんなに泣き喚こうが止まってはくれないもう置いていかれる、だから父と母は毛布で必死に私と妹を中に入れて落ちないようにしてずっと行ったり」

昼は炎天下、夜は気温がマイナスにまで下がる気候のなか、屋根のない貨物列車に乗ったり、食べものもないなか何日も船に乗ったりして、ようやく長崎県の佐世保港にたどり着いたといいます。

【崎田安子さん】
「食べ物がないから子供はどんどん衰弱して亡くなる。夜になったら水葬といって海に流される。やっと佐世保について、日本についたなと思って」

太平洋戦争前から、日本は中国の一部や朝鮮半島、台湾などを事実上支配し、軍人などもあわせると約660万人の日本人が、いわゆる外地にいたといわれています。日本の敗戦を受け多くの日本人が帰国を目指し、満州だけでなく各地から一気に引き揚げを始めます。

「慰霊碑の横に山地秋英」
鳥栖市の廣渡愛子さん85歳。朝鮮半島、現在の韓国南部の慶尚北道から釜山を経由し日本に引き揚げました。戦争で兄と一家の財産を失いました。

【廣渡愛子さん】
「敵が入ってくるという話を聞いたら色々お金など取られるから、おにぎりを握っておにぎりの中にお金を入れてしのいだ」

終戦まで、廣渡さんの両親は大きなリンゴ園を営んでいて現地の人を多く雇い、裕福な暮らしをしていたといいます。

【廣渡愛子さん】
「家で醤油や味噌を作っていた。リンゴ園をしているから多くの従業員を食べさせないといけないから」

しかし、日本の敗戦を受け帰国することに。

【廣渡愛子さん】
「貨物船に乗って出港するけれど、魚雷が浮いているからと港に帰ってきて、何回でもそうして」

廣渡さん一家は引き揚げ船ではなく、貨物船をチャーターし、釜山から乗り込んで日本を目指しました。

【廣渡愛子さん】
「食事をしないといけないから、一番上の姉がお腹が大きかったけど貨物船だから(出入口が)ないので窓から出入りして、渡し船で渡っていって港で食事炊いてきて」

朝鮮半島を出る際、日本へ着物などを送る手配はしましたが、ほとんど到着せず財産はほぼゼロに。このため帰国後、生活が一変します。

【廣渡愛子さん】
「お金があってもお米を買いに行ったら分けてくれない、品物がなかったからあの頃、だから母たちが持ってきた着物を全部お米とかえたような生活をしていた」

朝鮮半島での裕福な暮らしとは真逆の生活で、持ち帰った現金も役に立たず空腹に耐える日々。これまで体験したことがないつらく苦しい体験でした。
そんな廣渡さん一家にさらなる悲劇が。兄の戦死です。

【廣渡愛子さん】
「これが出征する兄、これが母、亡くなった次男、2つ違いの姉、それでこれが私」

廣渡さんには、歳が離れた兄がいましたが19歳で海軍に招集され、帰らぬ人となりました。

【廣渡愛子さん】
「兄が出港するときは、持っている品物も全部送ってきて自分は助からないと思っていたのだろう、懐中時計も全部朝鮮に送ってきて、母がそれを言っていた、泣きながら。兄がいれば人生も変わっていたと思う」

父も病気で亡くなったため、戦後、母はきょうだい3人を1人で育てました。終戦から78年、家族を失い暮らしも壊された廣渡さんは、兄の慰霊碑を前に不戦の誓いを新たにします。

【廣渡愛子さん】
「戦争は本当に恐ろしいから二度とないように願っている。人の人生を変えてしまうから、戦争は」
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