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爆弾が雨のように降り “川に隠れて命拾い”した男性 機銃掃射の音が耳から離れず【佐賀県】
2024/08/19 (月) 18:20
シリーズでお伝えしている終戦企画。太平洋戦争中、吉野ヶ里町に特攻隊の訓練をする飛行場がありました。近くでアメリカ軍の空襲を受けた男性は、“川に隠れて命拾いした”と当時の体験を振り返ります。
【北村さん】
「爆弾落とすところが流れてくるでしょう。雨の降るごとく落ちてくる。あれ見たときは怖かったね。子供ながらにね」
吉野ヶ里町に住む北村邦弘さん85歳。
北村さんが生まれた1939年、第二次世界大戦が勃発。
その翌年には日本・ドイツ・イタリアによる「三国同盟」が締結され日本は太平洋戦争へと足を踏み入れます。
【北村さん】
「物心ついたときはもうご飯炊かせられよった。かまどなんかは昼あんまり炊いていなかった。煙が出るから。外から煙が見えるけん」
北村さんは幼いころ、ある夢を思い描いていました。
【北村さん】
「子供の時には飛行機乗りになるって言ってたよ。身近にあったけんさ」
当時、自宅の近くにあったのが目達原飛行場。
今も、その正門跡が残っています。
特攻隊を志願する若者が訓練を受けた太刀洗陸軍飛行学校の分校として使われていました。
当時幼かった北村さんにとって、特攻隊員は憧れの存在でした。
【北村さん】
「やっぱりかっこよかった。特攻隊の人たち時々見よったら違うですもんね。普通の兵隊さんとは全然違う。飛行帽かぶって、彼らは軍刀さげとったけん。そして長靴踏んどったけん。普通の兵隊さんと全然違う」
そんな中、戦局が激しさを増し、北村さんの身近にも危険が迫ります。
1945年7月28日、目達原飛行場周辺をアメリカ軍が空襲しました。
【北村さん】
「午前中。昼前。目達原飛行場から帰ってきていた。飴もらって帰ってきよった」
突然、周囲に鳴り響いた空襲を知らせるサイレン。
北村さんは、周りの大人から急いで身を潜めるよう指示を受けます。
【北村さん】
「飛行機の音は私たち聞こえんやったけど。そしたら『川に入れ』って言われて。最初なしていわれよるかわからなかった。ぱっと上見たら飛行機が見えた。そのまま川の中に入った。服を脱ぐ暇なかった。入らんなら殺されるもん」
小さな川で姿を隠した北村さん。
上空には、初めて見る光景が広がっていました。
【北村さん】
「爆弾落とすところが流れてくるでしょう。雨の降るごとく落ちてくる。あれ見たときは怖かったね。子供ながらにね。子供だから好奇心があるから出たら行かんけど出ていくんですよ。兵隊からがられていた。『防空壕から出るといかんぞ』って。話を聞いていると見に行きたくなる」
隣接する三田川町と合併し吉野ヶ里町となった東脊振村の村史はこの空襲で3人が亡くなり焼夷弾による火災が20棟あったことを伝えています。
【北村さん】
「その時はおそろしかった。おそろしかったね~って川から上がってきたときね。思った」
北村さんが命からがら隠れた小さな川を案内してもらいました。
【北村さん】
「まだ深かったですもんね。子供ながらに入って。もうちょっと深かったです」
【北村さん】
「えすかったね、飛んだ来たときは。最初はそがんなかったばってん、機関銃の音聞いたら怖かった」
アメリカ軍の飛行機は、約10分ほど低空で飛び回っていたといいます。
【北村さん】
「なんも言っていなかったらおれたち死んどったよね」
北村さんが隠れたという場所の近くには、機銃掃射を浴びたとされる石碑が当時のまま残っています。
北村さん石碑の白いラインさしながら
「ここら辺のとは機関銃の弾の跡」
目達原が機銃掃射を受けたおよそ半月後、日本は終戦を迎えました。
【北村さん】
「ラジオ放送のあるけんが聞きに行けって。誰かから言われたかな。何かわからんで行ったら戦争の終わったと。負けた、日本は。それだけ」
終戦後、北村さんは父が立ち上げた醤油メーカー「北村醤油醸造」に入社。
1982年に会社を引き継いだ後、今は一線を退き会長職についています。
北村さんは今でも、あの夏に聞いた機銃掃射の音が耳から離れません。
【北村さん】
「鉄砲で撃つのと違う。早いでしょ、バラバラ撃っていくから。ああいう風な経験はもうしとうなかです」
【北村さん】
「爆弾落とすところが流れてくるでしょう。雨の降るごとく落ちてくる。あれ見たときは怖かったね。子供ながらにね」
吉野ヶ里町に住む北村邦弘さん85歳。
北村さんが生まれた1939年、第二次世界大戦が勃発。
その翌年には日本・ドイツ・イタリアによる「三国同盟」が締結され日本は太平洋戦争へと足を踏み入れます。
【北村さん】
「物心ついたときはもうご飯炊かせられよった。かまどなんかは昼あんまり炊いていなかった。煙が出るから。外から煙が見えるけん」
北村さんは幼いころ、ある夢を思い描いていました。
【北村さん】
「子供の時には飛行機乗りになるって言ってたよ。身近にあったけんさ」
当時、自宅の近くにあったのが目達原飛行場。
今も、その正門跡が残っています。
特攻隊を志願する若者が訓練を受けた太刀洗陸軍飛行学校の分校として使われていました。
当時幼かった北村さんにとって、特攻隊員は憧れの存在でした。
【北村さん】
「やっぱりかっこよかった。特攻隊の人たち時々見よったら違うですもんね。普通の兵隊さんとは全然違う。飛行帽かぶって、彼らは軍刀さげとったけん。そして長靴踏んどったけん。普通の兵隊さんと全然違う」
そんな中、戦局が激しさを増し、北村さんの身近にも危険が迫ります。
1945年7月28日、目達原飛行場周辺をアメリカ軍が空襲しました。
【北村さん】
「午前中。昼前。目達原飛行場から帰ってきていた。飴もらって帰ってきよった」
突然、周囲に鳴り響いた空襲を知らせるサイレン。
北村さんは、周りの大人から急いで身を潜めるよう指示を受けます。
【北村さん】
「飛行機の音は私たち聞こえんやったけど。そしたら『川に入れ』って言われて。最初なしていわれよるかわからなかった。ぱっと上見たら飛行機が見えた。そのまま川の中に入った。服を脱ぐ暇なかった。入らんなら殺されるもん」
小さな川で姿を隠した北村さん。
上空には、初めて見る光景が広がっていました。
【北村さん】
「爆弾落とすところが流れてくるでしょう。雨の降るごとく落ちてくる。あれ見たときは怖かったね。子供ながらにね。子供だから好奇心があるから出たら行かんけど出ていくんですよ。兵隊からがられていた。『防空壕から出るといかんぞ』って。話を聞いていると見に行きたくなる」
隣接する三田川町と合併し吉野ヶ里町となった東脊振村の村史はこの空襲で3人が亡くなり焼夷弾による火災が20棟あったことを伝えています。
【北村さん】
「その時はおそろしかった。おそろしかったね~って川から上がってきたときね。思った」
北村さんが命からがら隠れた小さな川を案内してもらいました。
【北村さん】
「まだ深かったですもんね。子供ながらに入って。もうちょっと深かったです」
【北村さん】
「えすかったね、飛んだ来たときは。最初はそがんなかったばってん、機関銃の音聞いたら怖かった」
アメリカ軍の飛行機は、約10分ほど低空で飛び回っていたといいます。
【北村さん】
「なんも言っていなかったらおれたち死んどったよね」
北村さんが隠れたという場所の近くには、機銃掃射を浴びたとされる石碑が当時のまま残っています。
北村さん石碑の白いラインさしながら
「ここら辺のとは機関銃の弾の跡」
目達原が機銃掃射を受けたおよそ半月後、日本は終戦を迎えました。
【北村さん】
「ラジオ放送のあるけんが聞きに行けって。誰かから言われたかな。何かわからんで行ったら戦争の終わったと。負けた、日本は。それだけ」
終戦後、北村さんは父が立ち上げた醤油メーカー「北村醤油醸造」に入社。
1982年に会社を引き継いだ後、今は一線を退き会長職についています。
北村さんは今でも、あの夏に聞いた機銃掃射の音が耳から離れません。
【北村さん】
「鉄砲で撃つのと違う。早いでしょ、バラバラ撃っていくから。ああいう風な経験はもうしとうなかです」
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